ゲームのおもいでの記事一覧
- 2007/2/01
- 【NDS】風来のシレンDS
- 2006/5/25
- 【PS】ファイナルファンタジーIV
- 2006/5/19
- 【PS2】ファイナルファンタジーXII
- 2006/2/12
- 【PSP】どこでもいっしょ
- 2006/1/29
- 【FC】ファイナルファンタジーIII
- 2005/7/26
- 【FC】ダウンタウン熱血物語
[ Category : ゲームのおもいで ]
【NDS】風来のシレンDS
クロムアーマーは火迅風魔刀+99を弾き飛ばした!
火迅風魔刀+99は何者かに当たった!
「…………。……………いや、いやいやいやいやいやいや……嘘だろ!?いや、待て、待って、いや!あ、あぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ……うあぁぁぁぁ!そ……そりゃないわぁ!、そりゃないわ、そりゃないわ、いや、そりゃないわぁぁ……。」
「風来のシレン」というゲームは無情だ。何時間もかけた努力が一瞬にして水の泡になるのが、何の前触れもなく、しかも日常茶飯事的に起きる。そこには一片の思いやりもありはしない。シレンの中の人は残酷だ。冷酷だ。鬼畜だ。鬼畜生だ。諸行無常とかもうとりあえずそんな感じだ。
「シレン」をプレイしたことがある方なら、冒頭のセリフの意味は痛いほどに感じ取ってもらえるかと思う。まぁ、要するに数日の努力を重ねて鍛え上げた最強クラスの武器が、無情なる敵の特殊攻撃によって一瞬にして消え去ったということだ。例えるなら、Lv99まで育て上げた勇者様がセーブされずに停電してお亡くなりになったようなものだ(言いすぎ)。
このゲームに関して言えば、「努力が報われる」なんてことは、ほぼあり得ない。いくら強い武器と盾を持ち込んでも、杖を一度振られただけで眠らされてタコ殴りにされてゲームオーバーになった。敵に剣を弾き飛ばされて見えない敵に当たって無くなった。一瞬の油断と不運が、プレイヤーの明暗を分ける。こんな理不尽なゲームが他にあろうか。
だが、それがいい。
そう、いくら挫折と絶望を味わされても、何故かもう一度挑戦している。そんな魔力を、シレンは確かに持っている。1歩先には終末が待っているかも知れないからこその緊張感。一瞬の油断が先のような絶望を引き起こす。このゲームに「運」の要素が強く絡むのは先に説明したとおりだ。しかし、プレイヤーの「腕」で、その「奇跡」の可能性を上げ、「絶望」の可能性を下げることが出来るのが、「シレン」というゲームの魅力だ。
例えば、私が「絶望」に直面し、完全にサジを投げて隣にいた友達にDSを手渡した。するとどうだ、その友達は見事にその「絶望」を切り抜けて見せた。私は目から鱗が出るような思いだった。まさかそんな神技であの「絶望」を切り抜けてみせるとは。プレイヤーの腕で、「絶望」を乗り越えた瞬間を、確かに私は見た。(食神のほこらで、階段を下りたら広いモンハウで次のターンにまわるポコリンに囲まれて全く身動き取れず(ここで私はサジをなげた)。そこで、鬼面武者の肉を食って殺されては周りにいる鬼面武者から鬼面武者へと乗り継ぎを繰り返し、最後にギタンの上にいたガマラに乗り移ってギタンを盗んでワープで逃げた)
シレンにおいて、どうしようもない状況で死ぬことはむしろ死因の一因に過ぎない。後はプレイヤーの凡ミスによることろが多い。そして、その「どうしようもない状況」すらも、上のようにプレイヤーの腕と機転で切り抜けられることが少なくない。要するに、結局のところほとんどの場合において「絶望」は自分の甘さからくるものなのだ。
冒頭の小話も、結局のところ剣を弾き飛ばす敵がいることが分かっているフロアで警戒せず走り回っていた自分の油断に原因の一端がある。そう、今振り返れば避けられたはずの「絶望」なのだ。Lv99の勇者様が消えるのが嫌ならセーブをしておけばいい。でも、無くしてから振り返っても、もう遅い。しかし、その死はプレイヤーの経験となって、次の冒険に確実に生かされる。二度と私は最強の剣を弾き飛ばされるような真似はしまい。
だから私はまたDSを握る。次こそはシレンの中の人を打ち滅ぼすために。
(※シレンの中の人:昔ファミ通の編集者の間でまことしやかにささやかれた言葉。プレイヤーが絶望するのを計算しているかのように恐ろしい死に方を次から次へと提供してくれることから、「シレンのカードリッジの中には1つ1つに人が入っていて、プレイヤーを陥れて楽しんでいる」という噂が広まったらしい。誌面に載るくらいだから相当なものだろう。昔私もこの記事を読んで大いに同意し、未だシレンの中には人が入っていると確信している。)
[ 2007/2/01 09:21 | ゲームのおもいで | comment(0) | trackback(0) ]
【PS】ファイナルファンタジーIV
「せいぎよりも ただしいことよりも だいじな ことがある いつか わかるときがくる」
私がこのゲームを初めてプレイしたのは中学生のとき。ゲームで感動する、というと違和感を感じる人も多いかもしれない。だが、私はこのゲームをプレイして、何度も鳥肌が立つくらいに心を動かされてしまった。今でも「ファイナルファンタジー4」は私の最も好きなゲームの1つである。数年おきに思い出したようにプレイしているが、何度やってもこの感動は色あせない。むしろ、自分が成長したぶん、そこから受ける印象はいつも違っている。
主人公・セシルは、序盤は自分の「正義」と暗黒騎士としての立場の落差に苦しんでいる。本当は誰よりも純粋な心を持ちながら、王の命令に逆らえずに無抵抗の人間を殺していく。その事に苦しみながらも、そんな自分の境遇を悲観することしか出来ない。しかし、ある事件をキッカケに、セシルはそんな自身の心の弱さを否定し、自分の意思で行動していくことになる。
いくつかの出会いと戦いを経て、セシルは過去の自分と決別するために、ある試練に挑む。それは、暗黒騎士としての自分と戦い、乗り越えること。普通、「過去の自分との戦い」というと普通に剣や魔法を使って文字通り「倒す」ことになるお話が多いが、この作品は違う。暗黒騎士である自分に剣を向けるのではなく、剣を収め、耐えなければならない。セシルが求めた強さは、「力」ではなく「心」。耐えることでセシルは過去の自分を乗り越えて、光の騎士・パラディンとして生まれ変わる。
そのシーンで聞こえてくるのが、文頭の言葉。「正義よりも 正しいことよりも 大事なことがある」。勿論これはセシルに向けたものであり、後の展開の伏線にもなっている。それと同時に、私はプレイヤーにも何らかの意味を投げかけていると思っている。
セシルはパラディンになる前に、最も信頼していた親友・カインに裏切りを受ける。そしてパラディンとなった後に一度それを許し、しかし更に裏切られる。それでも、セシルはカインを許した(この「許す」というのは、このゲームの1つのキーワードになっている。)。これは、万人にとって絶対的に「正しいことと」とは言えない。だが、セシルは「許す」という選択をした。
更に、ストーリー終盤、セシルはそれまで敵として憎しみ、戦ってきた実の兄を「許す」か否かの選択を強いられるが、その答えを出せないまま最後の敵と戦うことになる。その前に敵の圧倒的な力によって倒れていた仲間達。ここで、これまでに一緒に戦ってきた仲間達の祈りが、セシル達に生きる力と耐える力を与えてくれる。「負けるわけにはいかない!」……セシル達は、文字通りの「正義」や「正しさ」のためだけではない、何か他の「大切な事」のために戦う。
そして、その戦いの後、セシルは最後に兄を許した。ストーリー序盤、セシルは暗黒騎士としての自分への葛藤から、自分の行為を正義や悪といった視点からしか考えることが出来なかった。「正義よりも正しいことよりも大事なこと」。ストーリーを通して、セシルはその言葉の答えを見つけたのだろう。
……が、プレイヤーである私自身は別だ。どうしてもこの言葉の意味についてハッキリとした見解を見出せずにいる。だからでこそ、何度プレイしても私はこのゲームを楽しめるのかもしれない。プレイするたびに新しい発見と感動がある。ある意味、お気に入りの小説や映画を繰り返しみる感覚と似ているかもしれない。
「FF4」は人によって評価が大きく二分している作品である。ゲームとしては少々クセが強く、システムが軽視されていると言われがちである。だが私は、多くのキャラクターが仲間に入り一緒に戦いストーリーを盛り上げてくれるこの作品のシステムがかなり好きだ。ゲームという形で自分で操作出来るからこそ、より深い感情移入が出来る。映画や小説では出来ない、ゲームだから味わえるファンタジーの世界。あまりゲームをプレイしなくなった今でも、自分の中でこの魅力は色あせていない。
[ 2006/5/25 23:47 | ゲームのおもいで | comment(0) | trackback(0) ]
【PS2】ファイナルファンタジーXII
気付いたらプレイ時間が3桁をまわってしまった。ここまで1つのゲームに時間をかけたのはいつ以来だろう。けれど、昔の3桁と今の3桁は、意味と重さが全然違う。久々に「FFの最新作」をプレイして、改めて自分のゲームとの付き合い方が変わっていることに気付いた。
昔は単純だった。小・中学生の頃なら「FFの最新作」とあれば、発売前には雑誌の新着記事にひたすらはしゃぎまわり、コンビニで予約して朝イチに買いに行って、ひたすらプレイ。プレイ時間が3ケタをまわることなんて当たり前。小学生のときには、「FFVII」の発売日の前日には興奮して眠れなかった記憶まである。高校時代の「FFX」でも、徹夜した覚えがある。
で、今回の「FFXII」。ゲーム雑誌はほとんど読まず、ゲーム関連のサイトも訪れず、発売日が決まったことをヨドバシの店内放送で知ったくらいだ。予約も面倒だからしなかった。発売日に購入はしたものの、バイトが入っていたのでプレイ開始したのは夜遅く。疲れていたので2時間もプレイせずに1日目は終わり。昔の自分から見れば、マジで考えられない。
プレイ序盤は……映像は確かに綺麗だし、音楽も中々。けれど、肝心のストーリーとシステムがタルかった。広すぎるフィールドを歩き回ってザコ敵を作業的に倒してLvを上げて金を稼ぐ。フィールドが広くてもストーリーは当然一本筋なわけで、結局おつかいで歩き回らされてるという感じ。まるで質の悪いオンラインゲームをプレイしているかのようなかったるさを少なからず感じてしまった。
まぁでも、一度買ったソフトをクリアしないのはお金がもったいない気がしたのでプレイを続けること数日。……少しずつ、ゲームとして「FFXII」は面白くなってきた。自分好みにキャラを育てて強い敵に勝利したときの快感は、ゲームならではの楽しさだと思う。その楽しさに「FFXII」は焦点を当てている、と言ってもいいかも知れない。それが可能になる中盤以降になって初めて、かつての自分のように、たまには徹夜もしてしまうほどにこのゲームにハマっていた。
しかし、昔とはプレイスタイルは随分違う。キャラはともかく強く、というよりは個性を持たせて色々試してみる。だからと言ってLv上げのような作業的なプレイはせずに、少ない戦力で如何に強力な敵に勝利するかに重点を置く。早く先に進みたいとも思わないし、人より先にクリアしたいとも思わない。思うがままにプレイした結果が、3桁のプレイ時間となって残った。
結局、最後までおつかい的なプレイ感覚は変わらないし、ストーリーはいつ盛り上がるんだか、って感じで自分的にはグダグダのままで終わった。エンディングに至っては完全に白けてしまった。レベル上げが必須になる隠し要素なんかプレイする気も起こらなかった。最後の無駄に長すぎるダンジョンには閉口した。そもそも序盤のタルさはどうにかならないのか。謎解きはヒント少なすぎ。解釈によって違う結果になるのは謎なんていわんよ。後半のガンビットは敵に合わせて入れ替えるの面倒くさすぎ。最後にプレイ時間を見てみても、達成感よりは「思ったより時間かかったな……」と思う気持ちのほうが強かった。エンディングを見た後は結局一度もプレイしていない。
とは言え、そういう多くの不満を感じながらも、結局3桁プレイするほどハマったのは事実なわけで。ゲームに対する熱意はほぼ冷めてるし、少なくともバイクに乗れる時期ならゲームが無くても全く困らない。ゲームとの付き合い方は変わった。けどゲームはやっぱり楽しい。今でもそう思えるのだから、7500円と120時間は無駄ではなかった。まだまだゲームとの付き合いは続きそうだ。
[ 2006/5/19 09:37 | ゲームのおもいで | comment(0) | trackback(0) ]


