ファミ通の歴史
1985年2月
ファミ通の前身である、パソコン雑誌『ログイン』の1コーナーとしてスタート。
主にファミコンソフトの紹介・攻略がメインでした。
1986年6月6日
『ファミコン通信』創刊。
主にゲームの攻略・秘技紹介がメインだった。しかし、始めのうちはかなり苦しかったそうだ。今でこそ、ファミ通は最も歴史があり、最も親しまれているゲーム雑誌ではあるが、その当時は全く違った。むしろ、当時では全くの新参者、最後発のゲーム雑誌だったのである。
『ファミリーコンピューターマガジン』『マル勝ファミコン』『ファミコン必勝本』。
当時、隔週発売であるゲーム雑誌が争っていた。そこに、『ログイン』から独立するような感じで創刊されたわけである。しかし、『ログイン』が良く売れていた雑誌だった事もあって、少しファミコン専門誌をなめていたようだった。創刊号として刷った部数は70万部!これは専門誌の部数としては、異例の多さである。その上、TVCMをバシバシやっていった。
……しかし、結果は惨敗であった。15万部も売れなかったのである。8割近い返品。2号、3号と期待より売れず、宣伝費とあわせると数億円の赤字を出してしまった。そこに、大事件が発生する。創刊号で紹介した『ドラゴンクエスト』のレビューにラスボスの画面が写っていたのであった。当然かなりの問題である。当時の編集長が担当を連れて謝罪に行く事になってしまった。
このように、『ファミコン通信』は滑り出しから転んでしまったのである。
1986年9月
ネッキー誕生。現在もファミ通の表紙で生き続けている人気キャラクターである。
1990年6月
『ファミ通マンガ大賞』と呼ばれる一般公募のマンガ選考会が開催されるようになった。この企画から、現在もファミ通でご健在の近藤るるる先生や、望月あんこ先生が入選した。近藤先生は現在週刊ファミ通で『たかまれタカマル』を連載中。
1991年7月
このころまでにはファミコン通信はトップの『ファミリーコンピューターマガジン』と肩を並べるほどにまで育っていた。ゲームは子供のもの、という既成概念をあえて捨てて、子供と同じ目線に立って記事作りをする。そんな編集姿勢が受けたのである。そして、そのころ他の出版社はPCエンジンを始めとする、第一次ハード戦争期における任天堂ハード以外のマシンの専門誌を展開し、なかなかの成功を収めていった。そんな中、ファミコン通信は週刊化への道を歩み始めた。
当時ゲーム雑誌は隔週発売が常識で、『ゲーム雑誌では週刊はムリ』という定説があった。課題となる点はいくつもあった。週刊になるぶん、ただのゲームの紹介では毎週は読んでくれない。週刊誌としての常識を整えなくてはならなかった。しかし、一番の問題はスタッフの問題であった。半年の間隔週で刊行、月に一冊の増刊号。それがファミコン通信のスタッフ補強作戦であった。しかし、この作戦は見事に失敗。当時の編集長もあきらめの声を漏らしたという。だが、編集部員達はあきらめなかった。あきらめの声を漏らした編集長に対して編集部一団となって罵声を浴びせた。このような編集部員の熱意に引っ張られて週刊化はスタートしたのである。
しかし、書店や取次ぎ各社の反応は鈍かった。専門化が進む中、ファミコン通信の理念は他の出版社と異なっていた。ゲームファンにとって、ハードの垣根なんてない。将来を含めて、どんなゲームが遊べるか。それが1冊の雑誌でわかるなら、そのほうが良いに決まってる。
その考えは、見事に的中した。週刊化当初は販売数を落としたものの、2年もしないうちには隔週のときよりも販売数を伸ばしていたのである。
1992年4月
浜村編集長誕生。(ペンネーム:浜村通信 本名:浜村弘一 通称:ヒゲ)
浜さんはファミ通創刊号のころからスタッフとして活躍。1990年には副編集長、1992年には編集長となった。ヒゲがチャームポイントのすばらしきお方である。
1996年1月
創刊10周年。誌名を『週刊ファミ通』に変更。
記念すべき『ファミ通』誕生の日である。私が愛するファミ通はここから誕生したのである。
1998年7月
ファミ通創刊500号。ファミ通部数倍増計画推進部隊、略して『ファミ部』結成。
週刊ファミ通が創刊から500号を達成した。これを記念して秋葉原でイベントを開催。2日間での来場者数がなんと6万5000人!以下にファミ通が愛されているかが伝わってきますね。
そして、忘れてはならないのがこの年にファミ部が結成された事である。初期のころはローカルテレビにファミ部の魂の証であるファミ部Tシャツを着て映るなどのゲリラ的活動が主であった。
2000年4月
アスキーから独立、株式会社エンターブレインと社名を変更。浜さんが代表取締役となった。その上、創刊600号を見事に達成したのもこの年である。本当にめでたい1年であった。
2002年1月
加藤編集長誕生。
1998年から2001年までファミ通64+の編集長をしていたバカータール加藤が編集長に就任。更なるファミ通の進化を目指し、新たな歴史が始まっていくのである。
2002年4月
週刊ファミ通700号達成。
この号は本当にすばらしかった。光輝くボディー。充実の内容。納得のコストパフォーマンス。すべてがすばらしかった。ファミ部も700号記念に多くの活動を繰り広げた。
2004年4月16日号
週刊ファミ通800号達成。
700号ほどではなかったにせよ、豪華な内容だった。オマケとして初代ファミコン通信1号の復刻版とその表紙を飾ったキャラクター「べーしっ君」が描かれた手ぬぐいがもれなく着いてきた。(ちなみに、その手ぬぐいは未だにFamiの机の前に飾ってあったりする(爆。
2004年11月26日号
週刊ファミ通832号(ハミツー号)達成。
700号より豪華なのでは?と言わんばかりの豪華さで迎えたプレミアム号。実は、この832号のイベントについて、1986年の創刊当時から「そんときはお祝いしたいね」という話があったそうな。けれど、当時の隔週刊ペースなら、832号に達成するには計算上36年の月日が必要となる。となると、当時の予定では2022年だということだから、浜村さんも感慨深そうに自分のコラムを綴っていました。
で、内容はというと史上初!ファミ通編集部員が編集部を紹介するスペシャルDVDが付録になっていまして、普通では絶対に見られないファミ通の内部が見られてなかなか面白いものでした。
[ 2006/2/08 09:46 | ゲーム考察 | comment(3) | trackback(0) ]
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Comment
すごく参考になりました。以下、誤字と思われますのでお直しくださいませ。
>創刊号で紹介した『ドラゴンクエスト』のレビューにラスボスの画面が移っていたのであった。
移って → 写って
by 匿名 : 2007/12/17 02:41
当時創刊号から買っていました(処分したのが悔やまれるw)が、
問題になったのはラスボスではなく、ラダトームの隠し階段の場所をマップに載せてしまってた事だったと記憶しています。
by 匿名 : 2008/5/09 11:49
桜玉吉にも触れてほしかったな。
by 匿名 : 2008/5/09 12:44
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